離婚について

14歳年上の彼。同棲して5年。子供が3歳。

で、当時23歳の私は、約半年間悩んだ末に別れることを決意した。

決めてしまったあとはあっという間で、引っ越しから家具の処理、役所の手続き、調停の申し立て、などなどなどなど、何から何までひとりでやった。

離婚は、とにかくやることが多いのである。紙切れ一枚ぴっと提出して終わりというわけではもちろんない。子供の親権で揉めたりなんかすれば尚のことだ。もういっそ区役所に泊まったら早いんじゃないかとすら思った。しかも、つい数日前までは夫だった、もう出来ればあんまり顔を合わせたくなくなってしまった男と、裁判所で何度も会わなくちゃいけなくなったりする。感情むきだしに壮絶な口論をしたあとに、「ああ、元気?」「あなた、ちょっと痩せたんじゃないの?」とかなんとかぎこちない会話を交わすのは、実に切なく気まずい。二度とあんな思いはしたくない。

あの頃は早くすっきりしたい一心で淡々とこなしていたけど、今思えばすごいエネルギーだったなと思う。今の私には到底無理だ。平気な顔をしていても身体はあまりのストレスに耐えかねたのか、激やせし、髪はパサパサ、何カ月も蕁麻疹がひかなかった。まだ息子が小さく、無言で幼い手を引いて歩く私に何も問わずにいてくれたことが救いだった。当時のことを思い出すだけで、ウィスキーのボトルが一本空きそうなので、この話は割愛。

その後、4歳年下の新しい彼氏と一緒に暮らし始めて、体系は元に戻り、髪は艶を取り戻し、蕁麻疹もきれいになおったので、立ち直りが早いことにかけて私の右に出る者はいないだろう。ちなみにその彼氏が今の夫である。

私も若かったけれど、彼はもっと若かった。よくもまあ、ハタチで子持ちの女についてくる決意をしたものだ。そんな健気な彼の愛に押し切られて、離婚から三年後に再婚をした。離婚における一連のプロセスがあまりに面倒すぎて、結婚すら二度としたくないと思っていたのだが、なんだかんだで、結婚はよいものだ。

幸せな人生である。

時々お酒の席なんかで話を振られて離婚の話をすると、「そんなの大したことないし、気にしなくていいよ」と慰めてくれる人がけっこういるんだけど、全然大したことなくはなかったし、かといって全然気にはしてないんだなこれが。むしろ、20代ですでに結婚も離婚も出産も再婚も経験してしまったことは、自分の強みであるとすら思っている。大抵のことでは動揺しなくなったし、対応力がついた。それに、以前よりずっと自分に正直に生きている。何事も経験してみて損なことはない、とまでは言わないにしろ、どんな経験も自分の糧にするくらいの強かさは必要なのだ。

でももし今夫婦げんかで「もうこうなったら離婚してやる!」と勢いづいている人がいたら、「ちょっと一回冷静になって考え直してみたら」と言いたい。離婚って本当、大変だから。

 

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どこもかしこもリンク切れである。

 

現存のウェブサイトも時が止まったかのように2009年頃を境に更新を停止している。さながら、火山灰に埋もれたポンペイの遺跡のよう。

あの頃のテキストサイト勢たちはみんなどこへ行ってしまったのか。そう、これはインターネット史に残るミステリーといっても過言ではない。

かくいう私もこうやってブログを利用してるわけなんだけど。

結局、テキストサイトの何が好きだったかっていうと、ディスプレイの中の真っ白の画面に黒い文字が淡々と羅列されているさまが好きだったのよね、多分。オレンジや水色のスタイリッシュなテンプレートデザインじゃなくて、もっと無機質で、個人的な、オーガナイズされていない部屋が必要だったし、今でも、そういう場所に時々帰りたくなる。これを読んでいるあなただってそうじゃない?

 

だからfacebookの投稿画面を開いて、「今なにしてる?」って訊かれても、私たちは何も書けなくなってしまうんだよ。

ブログをはじめました

年齢を追うごとに自意識は調整されて、感受性だとか情緒だとかのメータは平均値化し、私たちの精神世界に安定と平和が訪れるものなのだと思っていた。つまり、大人になれば私たちはこの得体のしれない苦しみから解放されるのだと。

まさかいまだに、こんなふうにして閉鎖的なインターネット空間のなかから世界中に向けて不毛な自意識を排出する行為を続けているだなんて、10代の私は想像もしていなかったはずだ。

 確かに、排出するにもエネルギーが要る。大人になるということはそれだけエネルギーを必要とする場面が増えるということかもしれない。そうやって自意識は良識という壁の奥へ追いやられる。ビジネスの場面では思ってもみないような定型文がすらすらと述べられるのに、自分の頭の中のセンシティブな部分や複雑な感情を表現しようとすると途端に言葉に詰まってしまうようなことが頻繁に起こるのも、日常的な自制の結果である。しかしそれは感受性が鈍感になっていくこととは別なのだ。刺激される脳のパーツが違う。ただ、何事にも日々の持続が必要なように、感情を組み立てる作業を怠る毎日を続けていれば、言葉の力は弱ってゆく。そればかりか、蓄積するだけのものはそのうちに腐っていく。甕に溜めた水のように。表現されないまま内に閉じ込めた感性などは、只の病気である。

そういうわけで、ブログを書き始める。

よどみなく流れる川をイメージしながら。私の心がいつまでも透明であることを願って。